慰 霊 の 日

  6月23日は、沖縄県の慰霊の日です。

 那覇市の波之上旭ヶ丘公園「対馬丸」記念館の隣りに、20年前に建立された戦時遭難船舶25隻の犠牲者の慰霊の碑「海鳴りの像」において、午後2時から「赤城丸」「嘉義丸」「開城丸」「湖南丸」「台中丸」の刻銘板の除幕式と慰霊祭が行われました。

 ヨシタミは、1982年から25年間戦時遭難船舶遺族会の事務局長を務め、現在は会長代行をしています。今回、1547人の刻銘板を建立しました。 

 

教科書検定の撤回を求める遺族の訴え

 去る太平洋戦争において、沖縄県は唯一地上戦が戦われ、軍・民あわせて20万余の尊い命が犠牲になりました。戦後62年経った今日なお、戦争で犠牲なった人々の遺骨が未だに山野に残されたままになっています。他方、沖縄県は離島であるがゆえに、海で犠牲になった県民も多数にのぼります。


 1943年12月21日、少年航空兵を乗せた「湖南丸」は、鹿児島県口之永良部の西方で米潜水艦の魚雷を受け沈没し、少年航空兵に志願途中の若者200人のほとんどが犠牲になりました。また、阪神方面の軍需工場へ向う若者や女子挺身隊なども多数犠牲になりました。家族へは、1年後「戦時災害により行方不明となり」と機密の印が押された証明書が船舶会社から通知されただけです。政府からは以後39年間一切知らされませんでした。家族が実相を知ったのは、没後39年経った1982年です。湖南丸が撃沈された当時、風の噂で沈没を知った家族に対して、憲兵と警官が犠牲者の家々を訪ね、葬式などは一切禁止であるとふれまわっていたことが明らかになっています。残された家族は葬式もできず、無念の涙に耐えて戦後を迎えました。機密保持のためと言って、戦時遭難船舶についての情報は全く県民に知らされませんでした。湖南丸が沈没して8ヵ月後、学童疎開船「対馬丸」の悲劇が起こりました。もし湖南丸のことが県民に知らされていたら、多大な犠牲を被らずにすんだものを、返す返す残念でなりません。政府は、県民の命をないがしろにして戦争を遂行しました。すべて軍事優先のために多くの県民が犠牲になりました。戦争が終わって62年になりました。国会では、憲法改正のための国民投票法が制定され教育基本法が改正されました。再び戦争への道を歩もうとしています。私たちは、どのようなことがあっても、子どもや孫のために、二度と再び戦争を起こしてはならないと固く誓うものです。


 ところで、2008年度から使用される高校教科書の沖縄戦に関係する検定結果が公表され、沖縄戦における「集団自決」の記述について、「日本軍による強制または命令は断定できない」との意見により、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させられていたことが明らかになりました。私たち遺族は、海で家族を失い、陸では戦闘に巻き込まれ、筆舌に尽くしがたい苦しい戦争を体験しました。海でも陸でも戦闘に巻き込まれた県民の苦しみに対して、検定の名のもとに沖縄戦の実相を歪曲し、戦争を風化させようとする目論みを断じて許すことはできません。沖縄戦における「集団自決」の悲惨な実相を広く国民に知らすべきだと考えます。速やかに検定を撤回されることを慰霊祭の名において強く求めます。以上、決議いたします。


                 2007年6月23日 
                           戦時遭難船舶遺族会
内閣総理大臣 安倍晋三殿

 

2007.6.24 琉球新報朝刊

 

2007.6.24 沖縄タイムス朝刊

 

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