活動の軌跡

 

 

 

活動の軌跡

 

1965〜1972 県外の活動

京都大学及び医学部付属病院での闘い(7年間不眠不休平均3時間睡眠)。
大学の民主化闘争に参加(京都大学職員組合中央執行委員)。
看護婦の44闘争(土曜日の半日勤務・週44時間勤務を要求)。
看護婦の増員・夜勤制限闘争(夜勤月8日以内・複数勤務)。全国闘争を展開し、国立大学医学部付属病院における半日ストライキを初めて成功させた。第8回全国、国立・公立・私立大学医学部付属病院職員懇談会事務局長として基調報告を行った。
沖縄返還同盟京都本部理事。沖縄の米軍基地、核抜き本土返還に対して、日米の返還内容は県民の要求を無視した核付き自由出撃・本土の沖縄化であることを訴えた。特に、京都大学を始め立命館・同志社・京都学芸大学など市内国立・公立・私立各大学学生にパネリストとして訴えた。
京都医療共闘幹事として、医療問題に取り組んだ。

 

1972〜2005 復帰後県内の活動

琉球大学医学部付属病院において、復帰後初めて看護婦の増員・夜勤制限・29分内闘争を組織した。
県職労医療支部副委員長として、県立病院における看護婦の増員・夜勤制限闘争(夜勤ツキ日以内)に取り組み、屋良知事と協定を結んだ。
北部地区労幹事として活動。
名護市辺野古のハリヤー基地撤去運動に参加。辺野古から東村高江に移動。安波において本格的なハリヤー基地建設が始まり、村民ぐるみの反対闘争に連日参加した。
恩納村における米軍都市型訓練施設建設反対村民ぐるみの闘争に連日座り込み参加。村民の闘いで、都市型訓練施設の撤去を勝ち取った。
宜野座村福山における米軍都市型訓練施設建設反対闘争。村当局が容認。村民ぐるみの闘争を支援して連日参加したが、強行された。
県道104号線越実弾射撃訓練反対闘争に参加。
本部町豊原区における自衛隊P3C反対闘争に最後まで参加。豊原区民の地域ぐるみの闘いを支援し、那覇防衛施設局に対する激しい反対闘争に連日参加。
1996年SACO合意以来、辺野古において闘いを組織。辺野古の闘いの3つの源泉の1人として今日まで9年間闘いつづけている。(解説:3角源泉とは、1996年SACO発表直後、危機感をもった辺野古の有志である嘉陽氏・比嘉氏と大城。嘉陽氏は、「命どぅ宝」のビラを自分で作成して区民に配布した。比嘉氏は、私費で横断幕を作り、普天間基地移設反対を訴えた。大城は、普天間基地を辺野古沿岸域に移設することに反対して、当初から久志・豊原・辺野古の区民に対して反対運動を呼びかけ、3区のビラまきなどを1人で行った。)区民独自の戦いが始まり、「命を守る会」初代会長によって、小学校児童を含む800人の署名が行われた。そして、命を守る会の闘いは2639日と座り込みを始めて560日に至る。

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