実績

 

 

 

 

実     績

 私は、1978年9月に38歳で初当選しました。マニフェストは、「もし、私を当選させていただいたら市民の小間使いになります」でした。私は、7期27年間、この「マニフェスト」を守り続け実践し、市民の役に立つ市会議員として「生活相談」「法律相談」の活動を必死に頑張りました。宮沢賢治の「雨にも負けず」の心境で、東奔西走、困っている市民のために、弱者に光を当てる活動に専念しました。27年間、毎日のように議会に出勤し、議会活動を旺盛に行いました。徹夜に及ぶ仕事もよくありました。

 

  

 

議 会 活 動

議会の定例会(1年間4回)において、27年間1回も休まず連続で一般質問を行いました。去る9月議会で、27年間109回の一般質問は全国でトップです。

   名護市議会終回の12月定例会で、110回を目指します。
1人で頑張って、名護市議会議員の定数を3議席削減しました。
  名護市の議員定数の条例整備のため、議会運営委員会は定数30議席の条例を提案しようとしました。これに対して、私は定数25議席(選挙公約)を提案し、約1年の検討の末、3議席減の27議席の条例を全会一致で議決しました。
辺野古の闘いで、30人の名護市議会議員の中で、現地で頑張ってきたのはヨシタミ1人だけです。
  普天間飛行場の辺野古への移設に反対して、9年間闘い続けてきました。平成16年4月19日から始まったボーリング阻止行動と座り込みの闘いで、平成16年4月19日から7月26日までの99日間、テント村新聞を私費で発行、9月からはヘリ基地反対協の新聞ニュースを、週2日は民商、週1日は医療生協、週4日は私が発行し続けました。10月21日からはお暇をいただいて中断しています。ボーリング阻止で頑張っている仲間は、早朝5時または6時から海に出て行くため、新聞を読む時間がありません。新聞の関連ニュースを単管足場で読んでもらうためには、毎朝午前3時から5時に起床しました。新聞を作るのには2時間はかかるからです。
調査活動のため、1年間約60万円を写真代として支払ったこともあります。
名護市非核都市宣言の実現。基地被害の調査など、市民の生命・財産を守るために奮闘。
  議員活動として、市民の要求に基づいて現地調査などの写真を撮ったり、パネルを作ったりするために支給される調査費(1ヵ月25000円)では赤字です。平成7年1月、女子米兵による親子3人轢殺事故の現場写真は、朝日新聞読者写真年間賞で3500人の中から2位に選ばれました。
全国市議会議長会長から、永年勤続特別賞表彰を受けました。

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市民の暮らし、医療・福祉・教育

私は、27年間市議会議員の仕事に専念し、議会活動・地域活動・PTA活動・戦時遭難船舶遺族会の活動など、市民の生活相談・法律相談に昼夜を問わず、土曜・日曜のほとんどの時間を費やしました。

1965年6月から7年間、京都大学医学部付属病院において国家公務員として勤務。京都大学職員組合支部書記長や、同中央執行委員など、組合運動・大学の民主化運動・看護婦の増員夜勤制限闘争・沖縄返還同盟京都理事など、毎日3時間睡眠で頑張りました。復帰後、琉球大学保健学部(現在の医学部)付属病院、県立北部病院・名護保健所などを経て、市会議員になりました。この経験を活かして、医学医療・福祉・教育問題に取り組みました。

 

議会の常任委員会は、27年間民生教育委員会に所属。

国の法律改正・県の条例改正・名護市の条例制定など、市民に役に立つ制度を多数新設・改善。
〈名護市の条例制定)高額医療費の貸し付け制度の新設。
  市民が病気になったとき、安心して治療に専念できるように、入院費用などの自己負担分のみを病院に支払えば、自己負担分を超える分は名護市が病院に支払う制度を新設させました。
〈国の法律を改正〉低肺機能患者の在宅使用酸素に、医療保険を適用させました。
  市議会議員になり、県立北部病院の婦長さんから「在宅酸素に保険を適用できるようにしてほしい」と言われました。当時、NHK名古屋放送が「低肺機能患者全国で40万人の在宅酸素に保険が適用されていない問題」をクローズアップしたことがきっかけになりました。沖縄の実態について調査し、政府に働きかけて保険適用を要請。衆議院社会労働委員会で保険適用を決定、法律の改正が行われました。
〈沖縄県の条例を改正〉心臓病・腎臓疾患など、指定された疾病の障害者家族の自動車税を免税にしました。
 

「障害者名義」の自動車税のみ免税となっていた沖縄県条例を、「生活を一にする者」という文言を挿入し、障害者家族について1台は免税することになりました。

復帰後8年間実施されていない入院助産制度について、県に認めさせ、県立北部病院に3ベッド設置させました。

  経済的に困難な場合、国・県・市町村が出産費用を負担する制度。

*名護病院夜間人工透析を隔日から毎日に改善しました(県環境保険部長との交渉)。

*高齢化社会の老人対策。市保健婦の採用、健康増進と検診の受診率向上など予防医学をすすめる(沢内村視察)。

*言葉の教室を守り、耳の不自由な人たちの家庭にファックスを設置させました。テレフォン相談室の設置。

市民の暮らしと経営を守るために

  *名護市公設市場のトイレを改築。
*公設市場のアーケード・サングリーンアーケードの実現に協力。
*小口融資制度の実現と返済期間の延長(5年)、市営住宅の増設。
*バス停・部落内排水溝・道路舗装などの地域の環境整備。簡易水道の水質検査を、保険所に変わり市の事業で定期的に行うことにしました。簡易水道に使用する塩素を、市が半分負担することにしました。

*学校教育現場における教師の暴力否定について、教育基本法の立場に立って提唱。

*危険な空気銃を、危険物として店頭で子供に売らないようにさせました。

*小中学校にプールを設置させるために、プールの無い学校において、25メートル泳げない児童生徒の実態調査を実施させました。

*要保護・準要保護児童生徒に対する、就学援助金の支給に関する改善。

学校給食の食器を改善させました。
  四点皿・先割れスプーンを、現在の食器に変えました。北部地域で最初に改善された自治体から12年遅れての改善でした。
障害者の共同作業所「いしなぐ」実現のため、経過措置として、初めて名護市が100万円の補助金を付けました。
〈名護市の条例制定〉昼休みの市役所窓口業務の実施。
 

*市議会において、17回一般質問で取り上げ実現させました。昼休みしか時間が取れない市民の要求が寄せられ、全体の奉仕者論を展開し、5年かかって実現しました。昼休み窓口業務は拡充しなければなりません。

本庁と支所との、ファックスによる住民票などの市民サービスの前進。
文化・スポーツ・伝統芸能などの問題についても取り上げ、これらの発展のために奮闘しました。
  *市民会館建設に向けた演劇上演活動。
  *21世紀の森公園の防犯灯等の設置。
  *名護市陸上グランドの夜間照明時間延長。
  *瀬喜田中学校による全国中学校テニス選手権優勝記念テニスコート8面の実現。
  *本土派遣児童生徒の派遣費の、市負担の増額と父母負担軽減の要求。

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農林水産業問題

名護市の農業粗生産額は、18年前(革新時代16年間)は年平均90億円で、最高95億円に昇りました。しかし、保守市政18年間が経った今日、60億円を割っています。競い合ってきた石垣市は、105億円になっています。名護市は、18年間で農業を衰退させ、大失敗に終わっています。

この間、名護市で、農業者が23人自殺、北部では57人が自殺しています。

 

平成17年9月議会で、上記の問題を取り上げ、行政とJA・負債農家3者が話し合うことを提案し、市長も積極的に対応することを確認しました。

水産業では、沖縄本島の東太平洋側の訓練水域(ホテル・ホテル)統計128°129°の水域の解除について、10年かかって小泉総理大臣から閣議決定による解凍が寄せられました。平成17年9月議会で、岸本市長は、同訓練水域の解除について、日米合同委員会に名護市として提案するとの答弁をしました。
羽地内海・屋我地沿岸域を「ハマグリ」観光のメッカとして提案、稚貝の放流を実現しました。

*一貫して土地改良後の農業用水の問題を取り上げ、10ヘクタール以上の灌漑用農業用ダムについて、地元負担させないことになりました。

*土地改良地域の防風林植付けと苗木の確保。

*三共農業公園を提案。バクテリアを用いて鶏臭・豚糞などの悪臭公害を軽減させ、農家の経営を守るために奮闘。

*屋部地域のミョウガ生産について議会で取り上げ、付加価値事業の導入に道を開きました。

*農業後継者の嫁探し問題について提案。愛知県の農協・豊田市を調査した結果を、市内各農協に提案。

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観光問題・リゾート問題

北部観光振興のために、1000万本の桜の植樹を提案。名護市で100万本の桜の植樹を提案。25万本分のサクランボの種を集めさせました。
八重岳・嘉津宇岳直結道路を提案しました。
名護市の林道にポケットを造らせ、山並みハイウェイを提案しました。
大浦川上流とマングローブ群生を自然公園に提案。大浦湾一帯を、エコツーリズムのメッカにすることを提案しました。

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その他の実績

戦時遭難船舶遺族会を結成

1982年、「湖南丸」の事故報告書を入手。戦後初めて「対馬丸」以外の戦没事故報告書を発表。洋上慰霊祭を実施。1983年、「赤城丸」「嘉義丸「湖南丸」「開城丸」「台中丸」の遺族を結集し、戦時遭難船舶遺族会を結成。事務局長に就任し、23年間務めています。

国による洋上慰霊祭を実現。遺族補償要求運動を展開し、政府折衝などに取り組みました。

インドネシア墓参を実現しました(政府事業)。

 

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