巻 頭 言
いやしきれない遺族の日々
去る6月23日、戦後42年を過ぎてやっと戦時遭難船舶犠牲者の慰霊碑「海鳴りの像」の除幕式と、第1回の合同慰霊祭を行うことができました。当時は豪雨にもかかわらず、年老いた遺族が、子や孫たちに手をひかれてぬかるんだ会場に足を運んでいただきました。幕が除かれて、子供を抱いた母親の像があらわれたとき、それをじっと見つめる遺族の目の輝きをみて、ほんとうに慰霊碑を建立してよかったとつくづく思いました。
しかし、その反面、慰霊碑を建立するまでに42年の歳月を経なければならなかったことに、腹立たしさと悔いが残るのも否めません。あのとき1歳で海の底に沈んだ子も、生きていれば42歳の壮年になっており、それだけ残された遺族も年齢を積み重ねました。式場に70歳、80歳以上の老齢な遺族の参列が多かったことをみてもそのことはいえるでしょう。なかには、慰霊碑の建立を待ちわびながら、亡くなった息子や娘のもとへ旅だった遺族も多かったに違いありません。
なぜ、慰霊碑の建立と慰霊祭を行うのに、これだけの長い歳月を経なければならなかったのでしょうか。
戦時中、船舶の遭難は高度な「軍事機密」として扱われ、「防諜」の名で憲兵などのきびしい監視にさらされました。海で最愛の肉親を奪われた人たちは、この「軍事機密」「防諜」という言葉におびえて、世間をはばかり、悲しみをおさえ、息をひそめて生きてきました。それはなにも、犠牲者の遺族だけではありません。遭難者を救助した漁船の船主もきびしくかん口令をひかれたために、悩みに悩んで不幸な死をとげた人もいます。
この「防諜」「軍事機密」「だれにもいうな」という一言が、どんな重みで犠牲者の遺族や生存者にのしかかっていたかということは想像に難くありません。その重みは戦後もずっと遺族の心につきまとっていました。
したがって、戦後40年近くも経てから戦時遭難船舶遺族会連合会を結成したときに、最初にとりくんだ仕事は、肉親がいつ、どこで、どのように死んでいったかということを究明することでした。そのため、政府や船会社にたいして「事故報告書」と「乗船名簿」の提出を求めましたが、それも「秘密」の名でたいへんな労力を要しました。沖縄県当局の調査によると、沖縄関係の戦時遭難船舶だけでも、32隻、約3千人余の犠牲者があったといわれていますが、その全容はまだ明らかにされていません。
いったいこの責任はどこにあるのでしょうか。
多くの戦時遭難船舶犠牲者は、当時の政府の戦争遂行という国策に協力して死んでいった人たちです。特に、昭和18年から20年にかけては、沖縄ー鹿児島間の海域はアメリカに制海権を握られ日本の商船を撃沈することを「兎狩り」と呼んでいたというではありませんか。その海に向って子どもや母親たちは追いたてられていったのです。
沖縄は戦場になるから疎開せよといっても、この海もまた戦場だったのです。日本政府はこのように死んでいった人たちにたいする遺族補償について「戦闘に協力したかどうか」を判断の基準にしているようですが、沖縄の島全体が戦場となり、海全体が戦場となっているとき、どこに県民が安心して身を寄せるところがあったというのでしょうか。軍民混在で逃げ惑い、兵隊も民間人もアメリカの砲弾で頭を砕かれ、同じ壕で殺され、海の底に沈んでいったのです。
なのに、何故に軍人、軍属にたいしては、遺族補償をしながら、同じ戦争犠牲者である私たちの子や孫や父や母にたいしては、一銭の補償どころか、一言の謝罪もしないのでしょうか。それどころか、一方では一機何億円もする戦闘機に惜しみなく金を出し、沖縄に駐留する米軍にたいしてはその駐留費の一部まで負担しています。日本政府に金がないわけではないのです。ないのは、海上での遭難を含めた沖縄戦で、尊い命を犠牲にした県民にたいする反省と思いやりがないだけなのです。
私たち遺族の立場からすれば、国は軍人、軍属、民間人であるかどうかの区別なく、国の責任で荒廃に導いた責任を明確にして戦争犠牲者にたいしては、謝罪と同時にそれにふさわしい遺族補償をすべきです。そうでなければ、慰霊碑を建立して、心のよりどころを得たとしても、ほんとうに遺族の心がいやされることはないのです。
私たちは国にたいして、戦争の代償とは高くつくものだと思わさなければ、またぞろ戦争の準備をやりかねません。その意味では、み霊にたいして平和を誓い、祈るだけではなく、実際に戦争を起こさせないためにどんな些細な企てにたいしても反対し、それを芽のうちに摘むことです。
すべての戦争犠牲者にたいする遺族補償の要求は、その点で声を大にして叫ばなければなりません。