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30番(大城敬人君) それでは、皆さん、おはようございます。この壇上に立つのも最後かと思うと、いちまつの寂しさがありますね。笑いながら言うとまずいですか(笑)。
それでは、議長のお許しがありますので、30番大城敬人ー般質問を行います。
昨今、沖縄の星と言いますか、宮里藍ちゃんとか我が名護市の諸見里しのぶさんとか、ゴルフで非常に素晴らしい、アメリカのメジャーでプレーをするという、そういう若者たちが沖縄を背負って世界にアピールできるというところに、非常に良い具合に来ているのですが、一方私たちの身の回りを見ると、そうばっかりは言っておれないということです。
私は、今日これをもって名護市議会おける一般質問を終わるというだけでなく、今回の来年1月22日に行われます名護市の市長選挙に出馬をするということで、今日が最後の議場になるわけですね。そういう意味では、市長も私への答弁は最後ですので、ひとつ思い出に残るような答弁をお互いにやり合いたいなと思いますので、よろしくお願いします。肩凝ってるんですか、市長。首を回してますが(笑)。
1978年、昭和53年9月に、38才で名護市議会選挙に初めて当選しました。その9月議会から一般質問を始めまして、今日で27年間、連続して1回も休まずに110回の一般質問を迎えることができました。これも、多くの方々に支えられて議会に押し出していただいたということで、ひとえに市民の方々のお力によって、私も110回を数えることができたと、心から感謝を申し上げたいと思います。以来27年間、私は議会の方で活動させてもらいましたが、光陰矢のごとくで65才になりました。もう年金がもらえる歳ですよ、皆さん。そういう時期になったのです。残り少なくなったと言うと語弊がありますが、もう消えそうなローソクかなと言われる場合もありますが、そうではなく新しいローソクに灯をともして、もう一度明々と照らして、名護市と名護市民のために、全身全霊を傾けて、生涯の仕事にこれから臨んでいきたいと考えております。市民の皆さん、本当に平和で明るく住み良い、市民にとって楽しい名護市・愛が満ち溢れている名護市・温もりのある優しい思いやりのある市役所・創意工夫をこらした意欲満々の市役所職員のもとで、地方分権の精神に立脚し、行政断行しまして、市民本位の市民に奉仕する市役所に大転換を図りたいと考えております。
27年前の議会は、屋部支所だったんです。もうここに何名ですか、慶三さんと2人だけかな、屋部支所を覚えているのは。我々、粗大ゴミとも言われながら頑張ってきましたが、そのときも私は、議会議員になりましてずっと午前8時に議会に出勤するという、これまでの公務員の生活の延長上みたいな、そういうやり方で進めて、ずっと出勤してまいりました。それから、今日のこの議会に移りました。議会が私の職場であり、いろいろなことをするところでした。夜も夜通し、ワープロなどを、まあワープロと言うと今の若い人には笑われますが、ワープロなどを打ってますと、名護岳が明るくなってくるのに気が付かないのですね。そういうことで、ふと気が付くと、もうしらじらと夜が明けているという、徹夜で資料作りを何度かやった思い出があります。ほんとにこの壇上に立って、27年間を振り返ると、走馬灯のようにいろいろなことが思い出されます。
そこで、少しばかり時間を取って、私の歩んできた道を、パネルで、写真で皆さんに少し紹介しながら、今日の質問に入っていきたいと思います。順不動ですが、一番問題になってきている、我が辺野古の普天間基地の移設の問題について、名護市は2回にわたって市民大会や反対決議をしたんですね。そういうことにも関わりながらきました。そして、平成9年の1月16日には、辺野古の区長さんからキャンプ・シュワブ沖の代替ヘリポート建設工事・調査実施に反対についてという要請がありました。このように、地元ではこのことについて、当初から辺野古の行政委員会で2・3回にわたって決議がされています。未だにそれは反故にされていませんから、ずっと辺野古の埋め立ては反対だという辺野古区民の最高決議機関と言われている行政委員会の決議は未だに活きているんだと、そういったことが辺野古のこの区民の心を支えてきているのではないかなと、しかし残念ながら、平成12年の3月21日には、今は助役でいらっしゃいますが、当時のいわゆる岸本市長が条件を呑むという前の日の豊原・辺野古・久志の模様を、議会で事実に反する市長への連絡をしていました。豊原の区長さんは、実際にはOKはしていなかったが、同じだろうということで、当時の企画部長であった末松助役が市長にそういうことをやりました。そのことが背景になって市長が決断をするという、そういういきさつがあったのですね。
それから、私は行政改革という問題をずっと唱えていますが、そういった中で財政問題と絡めながら、談合によるこういう高い率の入札はよろしくないと思います。そういうことで、こういう問題にもメスを入れてきました。平成15年には、これは市長が当選したあくる年ですが、市長選挙には全県の自由民主党関係者から7000万円のお金が集められているのです。まあ、反対の方の候補者には1000万円しか集まりませんでした。こういう状況の中で、あくる年の平成15年ですが、こういう結果が出たのです。入札価格で落札価格を割った落札率というのがありますが、1年間で120件の土木建築があったのですが、この内の106件ですね、これが95%以上。100%入札が1件、99%が8件、98%が18件と、こういう形が行われているのですね。全国のオンブズマンでは95%以上は談合だということで、沖縄は4位でありますというのですが、名護市の場合は88.3%がそういう状況でした。それを調べてみますと、事実に基づいて調査をして回答を得たのですが、名護市の場合、1年間の入札回数が25回というのが1点、23回というのが1点、22回と言うのが1点、これらは順列・数列みたいに、どこでチェックするのかわかりませんが、市長の選挙資金の中の高額の寄附者から順番にこの回数が増えるような、いわゆる行政談合と言われても仕方のないような実態があったということを、私はもう一度ここで改めてここで指摘をしておきたいです。今後はそういう方向も改善していかなければいけないんじゃないかなと思います。
基地問題では、私は今年の1月31日からアメリカへ行き、これはジョン・ヒルというペンタゴンの日本部長と話をして、その時に「駄目だ」と、「私は、名護市議会の反対をしている議員として参りました。もし、この辺野古の海を埋めるというようなことするのであれば、辺野古のおばあたちがシカバネを越えて行けと言ってますよ。」と言うと、その時の通訳がアメリカの方でしたので、「シカバネを越えるというのはどういうことですか。」と言うので、ジョン・ヒルさんに私は「皆殺してから行けと言ってるんだ。」と言ったら、彼は一瞬ひるみました。こんなことは大変だということで、しっかりとアメリカの国防省、あるいは国会、そしてシンクタンクなどにも行って参りました。そういう形で、堂々と名護市に於ける辺野古の埋め立てに反対するということを、米政府関係者にもでも申し上げてまいりました。これがジョン・ヒル部長ですが、ポーズをとってもらいました。彼は写真にほとんど入ったことがないそうですが、そういうことで、やっていただきました。
「物言わぬ貝」というフランキー堺さんの映画で、私は貝になりたいというのがありました。今ジュゴンの問題やあるいは自然環境の問題が言われている中で、この辺野古・大浦の中に1000種もの貝が居るという状況があります。しかも、世界で一属一種のサンゴウラウズがこれまで8個個体がありますが、国立博物館にもありますが、沖縄には1個しかありません。このサンゴウラウズ、この貝をはじめとして、ここには国内で初めて確認された8種類の新しい貝がいます。この台風後に、845種の貝がそのまま標本になっています。そういうことで、これからの沿岸案などいろいろな問題が出てきますと、貝も物を言わさないといかん。だれか「そうかい」って言うかなと思ったんですが、言ってくれなくて残念ですね(笑)。まあそういうこともありました。私は、辺野古の問題に関連しまして、1996年の12月2日、これはSACOの合意が行われた日なのです。くしくもSACOの合意が行われた1996年12月2日ですね、市民代表東京行動、当時の久間防衛庁長官なのですけれども、そこで私は総理官邸に行って申し上げました。「沖縄にはニライカナイという信仰があります。もしこのような海に、この巨大な飛行場を造るようになれば、沖縄県民全部が立ち上がって反対運動をしますよ。」と。そればっかりではありません。私は幼少の頃から辺野古の漁港の側にあるアジ墓というのですが、そこは門中墓で皆そこでシーミーウガミしますね。小さいときから親父に連れられて、潮が引かないとお墓まで行けなかったのですが、ずっと今日に至るまでシーミー(清明)ウガミをしております。そういうことからしまして、私は古川貞次郎副官房長官に申し上げました。「沖縄の信仰はほとんど祖先崇拝です。私もそういう立場にあって、この飛行場によって、いわゆる移設によって、我々の先祖の安眠妨害するようなことになれば、私が命を掛けて阻止します。」と、そういう宣言を、1996年の12月の2日に、この久間さんの後ですか、総理官邸に行きまして、古川貞次郎、当時の副官房長官に申し上げたのですが、未だにまだ副官房長官をやっておられるようですね。そういうことがありました。思い出せばいっぱいありますけれども、その都度また触れながら一般質問に入っていきたいと思います。
そこで、最後に皆さんにお見せしたいものがあります。市長、覚えていますか。これは何だと思いますか、皆さん。昭和53年、1978年の4月21日ですね、これが辺野古実弾射撃場から久志岳を越えて数久田に飛んできた105mm榴弾砲のそのままのサイズの模型なのです。その当時不発弾だったものですから、模擬爆弾だったものですから、これは名護市の米軍基地の冊子の中にこういう風に書いてあります。「4月21日数久田海岸80m沖、数久田集落より350mで、キャンプ・シュワブ演習場から発射されたと思われる105mm高性能砲弾が落下する事件が発生。米側は、「演習の着弾地点から頂戴してきた非爆発生の訓練用えい光弾」と発表しております。そういうことで、爆発はしなかったということですが、サンゴ礁の中にこれがぐっと突っ込んでいました。これと同じ物を作ろうというので、実は私の出身であります名護病院のボイラー室で、皆に作ってもらいました。27年前のまだ議員になる前のことです。そういう27年間の思いをここで語るには、こんなに短い時間ではできません。私の一般質問は、1時間と限られておりますので、そこで議長休憩してください。
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